選手インタビュー

河野孝典さんインタビュー

河野孝典さん 河野孝典さん スキー(ノルディック複合) 1992年アルベールビル 1994年リレハンメル

アルベールビルオリンピックとリレハンメルオリンピック。冬季オリンピックが2年の間隔で開催された2度の大会で、「ノルディック複合(コンバインド)」という競技に日本全国の視線を集めた立て役者の一人、河野孝典。初のオリンピックで団体戦金メダルを獲得しながら、当日までメダル獲得という意識は全くなかったという彼の"飛躍"は、貴重な出会いと自らの向上心によってもたらされたものだった。

【環境がもたらしたスキーという“遊び”】

高橋:今まで37年間の人生を一緒に振り返ってください。お兄さんが作られているホームページによりますと、1969年3月7日に「まつばや」の次男坊として生まれ、5歳からスキーを始められた。

河野:5歳くらいの頃でしたね。

高橋:スキーを始めたきっかけですけれども、生まれは長野の野沢ですよね?

河野:はい。

高橋:クロスカントリーのノルウェーのビョルン・ダーリさんという方が、「環境と肉体」、これが必要だとおっしゃっているんですよ。だからまさしく、野沢に生まれて、スキーをやる環境にあって、そして肉体的なものも恵まれていらっしゃったと思うのですが。始めたきっかけの一つとしては、お兄さんの影響があったとか。

河野:もちろん兄の影響は強いですね。僕より2歳上で、先にスキーを始めてまして。ビョルン・ダーリの話にありましたように、スキーを始めるに当たって環境がものすごく大事なんです。まず雪があること。野沢温泉は豪雪地帯で、冬になると2mとか、今年は4mくらい積雪があったようなところで生まれました。スキーは自分たちにとって何かと言うと、遊びの道具なんです。うちが「まつばや」っていう小さな民宿をやっていて、親は全く遊んでくれなかったですし。

高橋:スキーでお兄さんと一緒に遊んでたと。それともお友達もみんな一緒に、という感じですか?

河野:冬は、小学校に行った帰りに真っ直ぐスキー場に行くんですよ。兄の友達の家が食堂をやっていて、そこに自分のスキーを置いてもらっていたので履き変えて、リフトの営業が終わるまで滑っていました。できるだけリフトを乗り継いで上のほうまで行くんですよ。それで、リフトが止まったらそこから滑って降りて帰ってくる。スキー場の営業が終わったら、スキーをそこの食堂に預けて家に帰るというような。兄がそれをやっていたから、僕も自然に一緒に遊んでいました。両親が仕事をしていましたので。

高橋:そういった物理的なご家族の環境もあると思うんですけど、私はメディアが専門なのでテレビの影響というものをお聞きしたいのですが、他の競技の方では、小さい時に見たワールドカップの印象がすごく強かったとか聞くことがあるんですけど、小さい時にテレビで、例えばスキーの何かを見て憧れたとかいうことはありますか?

河野:札幌オリンピックの笠谷(幸生)さんの話をすることがありますが、僕はまだ3歳だったので…。野沢温泉で毎年ジャンプ大会が開催されていて、そこに笠谷さんがいらしてたのを見に行った覚えはあるんですよ。テレビを通じてとなると、それが何時のものなのかちょっとわからないですが、目の前で見た笠谷さんに憧れたというのはあります。親に連れて行ってもらったんですけど、「あれがオリンピックで金メダルを獲った笠谷さんだ」って教えてくれて、「ああ、すごいな」と思って。こう、光り輝いて見えるというんですかね。オーラが出ていました。神様ですので。

高橋:その時にもうスキーヤーになろうとか思われましたか?

河野:いいえ。

高橋:そうですか。小さい時はまだ、ただスキーが好きという感じで、プロになろうとかオリンピックに出ようとかいう意識はあまりなかったのですか。

河野:ないですね。オリンピックを考えたのはだいぶ後です、高校生になってから。子供の頃は、スキーは遊びの一つでした。冬になったら他にやること無いんですよ。家に帰っても家の人は忙しいでしょう。だから学校から真っ直ぐスキー場に行って、滑って、家に帰ってご飯食べたら、また外に行ってスキーやったんですよ。ミニスキーっていう、普通の長靴で履ける短いものがあって、それで家の近くにある坂に1mくらい跳ぶジャンプ台を作って飛んだりして。

【無理矢理コンバインドの選手に】

高橋:中学生の時にコンバインドを始められたと。

河野:先にジャンプを始めたんですよ。最初は普通のアルペンスキーをやってたんですが、小学3年の秋に虫垂炎になって、冬はスキーやっちゃいけないってお医者さんから言われたんですけど、ミニスキーでそのジャンプ台を飛んでました。それがジャンプの方に気持ちが行った一つの理由なんです。全部で三つくらい理由があるんですが、二つ目が野沢温泉で国体のスキー競技会があって、ジャンプ陣が活躍して長野県が総合優勝したんですよ。それでジャンプに憧れた。もう一つは、泊りがけの大会に、ジャンプだと全員連れていってもらえるということ。小学3年から4年になる時に、スキー部に入るか、入るのであればアルペンをやるかクロスカントリーをやるか、ジャンプをやるか決めるんです。

高橋:そこで、ジャンプを取った。特にジャンプがすごく出来て、ということではなかったんですか?

河野:違います。ちょっと変わったやつがジャンプをやるんですよ(笑)。それで3年間ジャンプをやって、コンバインドっていう競技は中学1年から始めました。日本でジャンプと言うと、都道府県でどこか思い浮かべます?

高橋:北海道。

河野:でしょう?ジャンプっていう競技は北海道が圧倒的に強いんですよ。中学になった時にコーチが、長野県の選手はジャンプでは北海道に勝てないから、コンバインドやりなさいって言うんです。だからもう無理矢理です。ノーと言えないでしょう(笑)。当時の指導者は怖かったですからね。先輩もみんなやっているんですよ。

高橋:そうするとチョイスが他にないというか、やらなきゃいけないっていうことなんでしょうね。それで、高校の時にインターハイ、国体優勝。

河野:決して優秀な選手じゃなかったんですよ。小学校の時に学年で5人いて、3番目。一番強かったやつはオリンピックで、その種目でメダル獲りました。僕は中学に入って無理矢理コンバインドをさせられたけど、走るのが嫌いで。大体うちの中学校だと2年で全国大会に行ったんですけど、僕は3年の時に初めて行ったし、しかも長野県の出場枠が10名で、ギリギリ10位で行きました。僕ね、そこで、全国大会に出れたらスキーを続けよう、出れなかったらスキーをやめよう、と思っていたんですよ。

高橋:そうだったんですか。高校の時に初めてオリンピックを意識されたということでしたが、真剣にこれをやらなきゃいけないみたいなものが出てきたんですか。

河野:最初は、高校1年の時にジャンプが上手になったんです。コンバインドっていう競技は、前半ジャンプをやって後半クロスカントリーをやるんですが、前半のジャンプで良い結果がでると、初日の結果で名前が新聞に載るんですよ。でも、走るの遅いから翌日には名前が消えるわけですよ。それが自分のやる気を高めて。初日に載って、2日目に新聞に載らないのは悔しくて、ちょっと走る方も頑張ろうかなと。

高橋:マスコミの影響というのもあったわけですか?

河野:そうですね。間違いなくやる気につながると思います。特に、僕が言ってる新聞と言うのは長野の地方紙で、地元の選手、特にスキー競技の地元の選手は大きく取り上げてくれるんですよ。そういう選手たちは、自分の名前が新聞に載ることを楽しみにしているというか、頑張って載りたいと思っているわけじゃないですか。だから、自分の名前が載れば次もまた頑張ろうとか、載らなかったら今度こそ名前が載るように頑張ろうとか、どっちにしても良い効果はあると思います。

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