選手インタビュー

小掛照二さん 小掛照二さん 陸上(三段跳び) 1956年メルボルン

【思いもよらなかった陸上選手の道】

高橋:小掛さんのことについてお伺いしたいと思います。もう何度も聞かれておられるでしょうが 、まず三段跳び、あるいは陸上競技をお始めになったきっかけを教えていただきたいのですが。

小掛:本格的に陸上をやったのは高校からなのです。中学校の時に少しはやっていましたが、高校の指導者が、私は広島の山の中の高校ですから「結局、チームゲームではよくいって県内の県大会だ。全国に行けるのは野球とか、バレー、バスケット、そういうチーム競技ではないよ。君は大変スポーツに素質があるから、一人で全国大会に出ていくのであれば陸上以外にない。君は陸上に一番向いている」ということで勧められたのです。これは日体大を卒業した先生で、専門は剣道だったのですけどね。私は野球が好きで、バスケットやバレーにも引っ張り出されたりしていたのですが、無理やり陸上を勧められました。

高橋:やはりとんでもない才能をお持ちだったのではないですか。

小掛:私の父も陸上競技を多少やっていましたので、素質はあるだろうなと先生は見ておられたのではないですか。それからいろいろな意味で、体育の指導者としてピンと来たのではないでしょうか。

高橋:でも大きな出会いというか、その指導者のかたが言ってくださったのがきっかけなのですね。

小掛:これがすべて今日の私の始まりです。

高橋:ご自分ではオリンピック選手になろうとか、小さい時から夢とか、そういう意識はなかったのですか。

小掛:いや、全然ないです。私の家は農家で長男でしたから、大学に行こうとか就職しようとかいうことは全くないわけです。農家の長男に生まれた以上、これは宿命だと思って。でもスポーツは何でもできましたから、高校時代は楽しくやれればいいなという気持ちがあって、いろいろな競技に才能もあったようですから引っ張られましてね。最後には、指導者がそこまで言うなら陸上競技をやってみようかということで、高校1年生から本格的に陸上競技をやりました。何をやるのですかと聞いたら、「君はジャンプを全部やれ、走るほうも短距離から全部やれ」という指導なんですよ。ジャンプは高跳び、幅跳び、三段跳びをやって…棒高跳びもあるのですが、田舎の高校には器具がありませんでした(笑)。今の子供たちは中学時代から、どの競技をやるか決めるのです。だけど僕の指導者は、「何をやればいいのですか。僕はハイジャンプをやりたいと思っている」と言ったら、「高校を卒業する頃になると何が向いているかわかってくるから、それまでは一切考えずにいろいろな種目をやれ」と言ったのです。この指導者がなぜ僕にそう指示されたのかなと振り返ると、それを聞く前に亡くなられましたので聞けなかったのですが、やはり私に陸上の基礎体力を作らせたと思いますね。それで、高校1年生の時に全国大会に一人で行ったのです。指導者もついてきてくれなくて、隣の高校から3人か4人くらい行くから、「そこの指導者にお願いしてあるから、おまえは一人で行って勉強してこい」と。その時が、初めて広島から外に出たという状態でした(笑)。名古屋の第1回のインターハイで幅跳び、高跳び、三段跳びに出て、全部予選落ちでした。やはり全国から優秀な選手が集まっているところでしたからね。

高橋:そうですよね。まだ始められたばかりでしたし。

小掛:そうそう。県内ではたまに勝ったりしていましたが、やはり中国大会、それから全国大会ではそうはいかなくて。第2回の大阪大会で初めて高跳びが2番になって、三段跳びが2番になって、幅跳びが3番だったのです。

高橋:すごい。では、全部3位以内ですね。

小掛:ええ、その時に高校の先生が初めてついてきてくれました。3年の時に最後のインターハイが宇都宮であったのですが、そこでは高跳びが2番、幅跳びが2番、最後の三段跳びは、雨上がりの土の競技場で14m50という高校新記録で優勝したのです。終わったら近づいてきた紳士がいて、どこかで見たことがある人だなと思ったら、ベルリンオリンピックの時に三段跳びで優勝した…「民族の祭典」という映画を僕は田舎の映画館で見ていましたから、「ああ、田島(直人)さんだ」と…その田島さんが、「小掛君、君は高跳びも幅跳びも立派だけど、これからは三段跳び一本に絞りなさい」と言うのです。そして、「これから将来どうするの」と。「私は農家の長男ですが、できたらもう少し陸上競技をやってみたいと思うので、広島県内のどこかの会社に入ってしばらくやろうと思います」と言ったら、「君は東京の大学へ出ていかなければだめだ。そしていい指導者について、君自身が一生懸命頑張れば、僕のベルリンオリンピックのチャンピオンの時の(16mという日本)記録を破るのは君だよ」と言ってくれたのです。それで握手してもらってね。

高橋:わあ、すごい。感動ですね。

小掛:もう感動ですよ。それで僕は田舎に帰って、「田島さんから言われたから、東京の大学に行きたい」と言ったのです(笑)。

高橋:どうしたのですか。ご両親はびっくりしたのではないですか。

小掛:でも、お金がないし…そうしたら当時、「布団と体だけでいい、あとは全部合宿費も授業料も面倒をみてやるから」という熱心な大学がありましてね。それなら大学に行けると、その大学に決めていたのです。そうしたら進学の年の1月になって、今度は東京の早稲田大学のマネージャーが織田幹雄さんと西田修平さんの手紙を持ってきたのです。織田幹雄さんというのはアムステルダムオリンピックで日本選手で初めて金を取られた人で、広島出身の三段跳びの選手なのです。西田さんというのは、"友情メダル"の棒高跳びで銀メダルをベルリンとロサンゼルスで取られた人です。その二人から「早稲田に来い」ということでね。織田さんは同じ広島で、僕も名前は知っていましたからその人に指導してもらいたいなという気持ちもあったのですけど、学校の面倒をみてやるということはないし、入れるのか入れないのかも分からない。だから諦めていたのですけど、織田さんと西田さんから手紙で「迷うことはない。早稲田に来い」とか、織田さんから「来れば、おれが日本一にしてやる」という手紙をもらったので、2年間だけ大学に行かせてくれと両親にお願いして。2年行けば大体、将来に伸びるかどうか分かるでしょう。それでだめだったら帰ってきて家を継ぐ(笑)。それで、自分もアルバイトもするからという条件で。結局、高校の3年生の時に田島さんから「三段跳びに絞りなさい」と言われました。高校の指導者が「卒業のころになれば君の進む道が自然と出てくるから」と言った通りでした。

高橋:本当に言われた通りですね。

小掛:そうですね。今の選手は自分の種目だけ、本当にそれしかやらないけれど、僕は幅跳び、高跳び、三段跳び、それからハードルもやりましたし、走るほうも県内では100m、200mは優勝していました。高校の指導者の「何でもやれ」という指導、これが一番でしょうね。

高橋:それは今の選手にもそう言いたい。

小掛:そうですよ、三段跳びの選手であれば幅跳びもできなければいけない、ハードルもできなければいけない、100mも10秒台でなければ世界では戦えないですよ。僕は高校時代にそれだけの力はつけていましたから。それで大学を出てからですが、記録を出したのです。

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