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- オリンピアンインタビュー
- 第31回 橋爪四郎さん
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私は私でメダルはもらったけれど、誰にも見せたくなくなった。不甲斐ないレースだったことにも因りますが、一番尊敬する人間がメダルを持っていないのだから。その銀メダルは押し入れに入れたままずっと出さなかった。通信社の依頼でやっと出したのは、古橋が亡くなって二、三年経った頃でした(笑)。去年の浜松のインカレの時には古橋の墓前にお参りしました。雨の降る日でした。七年経った今も私の中では古橋は生きています。
ヘルシンキ大会に戻りますが、最終日に800メートルリレーがあり、いくら調子が悪くても古橋は200メートルなら泳げると思ったので、「古橋を手ぶらで帰すわけにはいきません。古橋を使ってやってください」と監督に進言しました。結果は採用されませんでした。2012年ロンドンオリンピック400メートルメドレーリレーで松田丈志選手が言った「(北島康介さんを)手ぶらで帰らせるわけにはいかない」は話題になりましたが、私は六十年前に同じことを言っているんです(笑)。
大会閉幕後の帰国当日、「俺は帰らない」とベッドの上に座った古橋が言い出しました。「廣さん、ヘルシンキに一人残ってどうすんだ。下にバスが来てるからオレたちは帰るよ」と懸命に説得しました。古橋を置いて出るわけにはいきません。三、四十分バスは待ってくれました。それくらい彼は悔しかったのです。キャプテンでしたし、本当につらかったと思います。責任感の強い彼の心中は察するに余りありました。
七十年前戦争が終わり、旧制中学校を一年早く卒業し、奈良の靴下工場に就職していた私は、「古橋選手が和歌山で水泳の講習会を行う。受講者募集」という小さな地元紙の記事に目が止まりました。四人兄弟の末っ子で、甘やかされ、やりたい放題で育ち、苦しいことは嫌い、楽をしたいという性格の私は、渡りに舟とばかり、その講習会に向かいました。旧知の新聞記者もいて、泳いで見せたところ、「橋爪くん、俺と一緒にやらないか」と古橋が言ってくれました。その言葉がなければ僕の水泳生活はありません。「やりますっ」。親の許可も職場の諒解も得ないまま、即答していました(笑)。1946(昭和21)年の夏の古橋のその言葉は絶対に忘れません。それが古橋との出会いです。彼も私も18歳でした。
上京後は四、五百メートル泳ぐと古橋には百メートルくらい置いて行かれ、力の差は歴然でした。化け物のように強かった。この男についていきたいと思いました。それは古橋が死ぬまで続きました。苦しいことは嫌いな私でしたが、一旦水に入ると別で、今でいうインターバルトレーニングも古橋と延々やりました。「お前もよく泳ぐなぁ」と練習中に古橋が言ったことがあります。おかげで記録も一、二年でびっくりするほど伸びました。「俺はお前には絶対負けん」は一緒に出た試合の直前に言った古橋の言葉です。そして1949年のロサンゼルス全米選手権出場へと繋がって行きます。
私は水泳をやっていて本当に愉しかったです。まわりが良すぎた(笑)。仲間もコーチングスタッフも錚々たる方々でした。中でも古橋廣之進。いやぁ、彼は別格だな。
敗戦直後の物のない、貧しい時代を、強く明るく、謙虚にまっすぐに、豪快に繊細に生きた二人の日本男児の爽快さが溢れるインタビューでした。多くの人を励ました日本復興の一筋の光のひとかけらです。橋爪さんの語る言葉は、スポーツの厳しさと深さを覗き見させ、文字通りの切磋琢磨の末の栄光と挫折を垣間見させ、幾度勝ってもガッツポーズをしなかったフジヤマのトビウオへの敬意と友情、信頼と共有、邂逅と惜別が、清雅に余韻豊かに伝わってきます。それが果たされていないならば、ひとえに執筆者の力量不足です。貴重なお話を語ってくださった橋爪四郎さんに改めて御礼申しあげます。
- 橋爪 四郎(はしづめ しろう)
- 1928(昭和3)年和歌山県生まれ。男子四人兄弟の末っ子。旧制海草中学(現県立向陽高校)卒業後、奈良の靴下製造会社に就職。古橋廣之進(誕生日は古橋が四日早い)にスカウトされて日本大学に入学。素質と懸命の努力が実って水泳選手として驚くべき成長を遂げる。自由形中長距離で古橋と一時代を画した。1952年のヘルシンキオリンピック1500m自由形で銀メダル。世界新記録は十一回塗り替えた。引退後は橋爪スイミングクラブを設立して後進を育て、日本水泳連盟顧問、文部省スポーツ指導委員、横浜市教育委員等々を歴任。勲四等旭日小授章受章、国際水泳殿堂入りを果たしている。