選手インタビュー

横山謙三さん 横山謙三さん サッカー 1964年東京 1968年メキシコシティー

【選手から監督という立場へ】

広報スタッフ:では、現役時代から監督時代のことをお聞きしたいと思います。オリンピックのあと三菱でのご活躍もあったんですけれども、現役生活は何歳くらいまでだったんですか?

横山:33歳の4月末までやって5月から監督になっちゃいました。1年間はプレーイングマネージャーで登録はしてましたけど、次の年も登録はしたかなぁ、もちろん試合には全然出ませんでしたけどね。

広報スタッフ:では、すぐ切り替わって監督ということになったわけですね。

横山:そうですね、今まで選手だったのが急に監督になったというのもありますけど、その時はずいぶんいろんな戸惑いもありましたね、でもチームの事情でそうせざるを得なくて。というのは、二宮(寛)さんって方が監督をやってたんですけども、その方が代表の監督をやることになって。

広報スタッフ:三菱というチームでご活躍された横山さんですが、そのチームが浦和をホームにすることになったのはどんな経緯だったんでしょう?

横山:Jリーグができる時に、地元の人たちが浦和にもプロチームを呼んでこようという組織があって、三菱は東京でやろうと思ってたんですけども、グラウンドがなかったので、どこへフランチャイズを持っていくかと悩んでいて、三菱は選手も随分浦和から行ってるということで、すぐに決まったみたいですね。その頃は本当に大変だったと思いますけど。

広報スタッフ:日本リーグ時代というのは、お仕事をされながらプレーをしていたということですよね?

横山:そうです。僕らが入った時は、9時から5時半まで仕事をして、それから9時とか10時まで練習をしてました。しかも川崎の平間っていうところでやっていて、僕は浦和に住んでましたから、黙って帰ってきても12時過ぎちゃうっていう毎日だったですね。

広報スタッフ:1日しっかり働いてから練習されていたんですね。

横山:それは1年ぐらいだったですけどね。どこかに寄って、メシ食って帰ろうなんて言ったら朝になっちゃって。その頃はもう、今考えるとよくあんなこと平気でやってたなと思いますよね。ほとんど寝てないっていう状態ですよ、だから電車乗るとすぐ寝ちゃって(笑)。

広報スタッフ:でもやっぱりサッカーを続けていくという考えだったんですか?

横山:んー、会社に入った頃は非常に、どう考えていいか難しい時期でしたよね、サッカーやっても別に…それより仕事をした方がいいのかなっていう考えもあったり難しかったですけど、でもサッカーの世界にいたので、いずれプロ化されるだろうという気持ちはいつもありましたですね。特に、若かったんで体力的にはなんら問題なかったから、サッカーをやりながら仕事という…仕事といってもほとんどやってないわけだけども(笑)。企業内スポーツというものの走りの頃だったですが、翌年くらいからチームスタッフの努力で、午前中だけ仕事をして午後は練習しようという形になって、それは三菱が一番最初にやったと思うんですよね、だから、サラリーマンの給料をもらっている専門選手みたいなものですね。

広報スタッフ:徐々にその頃から、プロ化の流れになっていったわけですね。

横山:そうです、中身はもうね。例えば皆さんがよく知ってるのは、ラモス(瑠偉)が読売のクラブにプロ契約で来て、ぼちぼちそういう選手が出てきた時代ですよね。僕がちょうど監督をしている時代がだいたいそういう時代だったですね。

広報スタッフ:監督時代ですか、3冠を達成したというのは。

横山:そうですね、はい。

広報スタッフ:特に何か、監督の立場になったということで現役時代とは違う大変さというか、戸惑いのようなものはありましたか。

横山:監督としての教育っていうものをきちっと受けてなかったですから、監督というのはどういうものなのかなっていうのも、自分自身ではよくわからなかったんですね。選手とは全然違う立場ですから、どうやったら選手の持ってるいいものを引き出せるか、それをどういうふうにチームに生かしていくのかっていうことを、これはどの種目でも同じだと思うんですけれども、それがうまくいった時っていうのは、選手の時代とはまったく違う喜びみたいなものはありますよね。ですからその3冠…あの当時は初めての出来事だったんで、そんなにうまくいっちゃうのかなっていう感じだったですけどね。まあ、ものすごい練習もしましたし、本当にその頃の選手がよくやってくれたなと思いますね。

広報スタッフ:その後、日本代表チームの監督になられたわけですけれども、今度は監督として五輪やワールドカップを目指されたわけですね。

横山:代表チームの監督については、今でもJリーグの中でもっと代表の時間を短くできないかと言われてますよね。でも代表の監督と単独チームの監督は、立場が全然違うんですね。ですから、代表の監督をやったんで、僕はなんとしてでも代表の監督には協力しなければいけないという気持ちを持ってるんです。それまで、代表監督をやったのに、チームに戻ったらちっとも協力しないなぁっていう人を目の前で見てたんでね、僕は絶対にそれはやらないと思ってましたね。誰が監督になっても、やりたい放題やってくださいという気持ちです。ただ、単独チームというのは選手を買って一生懸命チームを作り上げてきたのに、その選手がいなくなったら困るしその立場はわかりますよ。だけど、大きな目で考えた時に、やっぱり代表の活躍がJリーグの魅力にもつながってくるわけで、そのために協会もJリーグをスタートさせたわけですよね。ですからやっぱり、代表が強くなってほしいっていう気持ちは、みんなどこかにあるはずですよ。

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