選手インタビュー

小谷実可子さん 小谷実可子さん シンクロナイズドスイミング ソウル大会出場 オリンピック

【ハード以上にソフトの充実、“おもてなしの心”を】

辛:2020年の東京オリンピック、パラリンピックの開催が決定したいま、これから7年後まで東京もしくは日本が目指すべきことや課題は何でしょうか?オリンピアンとして、人間として、女性として様々なお立場にいる小谷さんのお考えを教えてください。

小谷:アスリートの立場からみて、東京の招致活動が評価された一つの要因としては、「アスリートファースト」という考え方があったからだと思います。競技施設だったり運営だったりフェアプレーだったりと、オリンピックではアスリートが最高の競技ができる環境を整えてあげることが一番ですし、IOCでもそれを望んでいたわけで、その確実性を東京が今回買われたと思っているので、そのことを裏切らないように競技施設や選手村の準備はしっかりとしていかなければいけないですね。新しい競技場や選手村ができるときに最新のテクノロジーが使われて洗練された東京の、他の都市にはないアピールポイントは出てくると思いますが、それに伴うハード以上のソフトの成長、充実は絶対に忘れてはならないことです。語学も国際感覚も磨いて、日本ではこう考えるが、外国の方はこう考えるということを知っておかないと。日本の考えを押し付けるのはいけないですから。それこそ、『おもてなしの心』を発揮しないといけないと思いますね。
2016年の招致活動中でしたが、アジアのアスリート委員会の理事をしていたときにアジア大会が選手にとっていい大会になっているかどうかのインタビュー調査をしました。青森で行われた冬季アジア大会で、各ホテルに宿泊している選手たちに「ホテルはどう?」、「食事はどう?」と聞いて回ったら、「日本は素晴らしい」、「ホテルは素晴らしい」と皆さん言ってくださいました。食事をバイキング形式で出していたホテル側にも選手のみなさんの様子を聞いてみたら、そのホテルの方が「どこどこの国の選手たちは何時くらいに来て何を好んで食べています」と答えられて、「ホテルでは各国それぞれの選手たちに合わせて料理を提供するようにしています」とさらっと言われて、選手の好みとタイミングまで分かって食事を出している日本人はすごいと感心しましたね。いろんな大会の選手村を見ている私ですが、青森のホテルのような心配りまでやっているところはそんなに見られないです。温かい物をたっぷり食べてもらいたいというのは「おもてなしの心」じゃないですか。そういう考え方を持っている日本は素晴らしいと思いますね。
私はソウル五輪でものすごくいい思いをした経験があって、いまでもハングル文字を見たり、韓国語を聞いたりすると鳥肌が立つくらいで、自分の人生の最高の時期に嗅いでいた匂いとか文字とか言語をいまでも感じると武者震いがするんですね。当時は反日感情があるから戦いにくい舞台かもしれないと散々脅されてソウルに行きましたが、行って見たらセキュリティの人も感じがいいし、人々もすごく親切で、私も一生懸命韓国語を覚えて、現地の人とコミュニケショーンを図るなど素晴らしい日々だったんですね。それが人生の大きな宝物でもあり、ピークでもあり、転換期でもあった。今度の2020年の東京では何千人のアスリートや訪れた観客、お手伝いするボランティア、すべての方が武者震いするようなオリンピック、パラリンピックになると思うし、そうなって欲しいので、そのためにはソフトの充実を図った上で迎えることが大事だと思います。以前、長野五輪後にあった会合で「日本おめでとう」、「長野は素晴らしかった」と言ってもらえたことがあって、どんな外交よりも長野五輪を喜んでくれた人が日本を見る目がこんなに変わるんだというのを感じましたね。

辛:いま、オリンピアンである小谷さんが現役時代に経験したオリンピックのことを語っていただきましたが、アスリートにとってオリンピックという舞台はどのような舞台なんでしょうか?

小谷:とにかく人生最高のひのき舞台ですね。そのためにすべてをかけて準備をしてきて、たぶん、私のひのき舞台と言えるのはソウルのときであって、心も身体も充実した状態でオリンピックに行けたからこそ、そのステージをひのき舞台と感じることができたと思いますね。その反面、バルセロナのときを考えると人生の修羅場だったので同じ舞台でも違う2つの気持ちがあります。あとで考えると自分が修羅場と思ってしまうくらい心が充実していなかったからで、そういう状態の選手が勝てないからこそ、オリンピックというのは最高の競技の場であるわけで、その厳しい戦いの場で選手も死に物狂いでそこに向かうわけですし、見た人たちも感動するんだと思います。バルセロナのときを修羅場とは言いましたが、あとから考えるとやはりオリンピックは輝かしい舞台でしたね。

辛:「4年に1度しかない」オリンピックのサイクルに合う合わないアスリートがいますが、アスリートにとって「4年に1度しかない」サイクルはどんなものだと思いますか?

小谷:シンクロは1984年から正式種目に入りましたので、あの貴重なオリンピックの正式種目に入りたいと思っていた期間が長かったんですね。日本のシンクロは世界選手権などの国際大会で常にメダルを獲っていましたので、オリンピックの種目に入りさえすればメダルが獲れるという時代があった。1984年のオリンピックは、私は五輪代表レベルのちょっと下あたりでオリンピックには行けなかったんですけど、そこで先輩たちが予定通りにメダルを獲り、女性の新しい種目でそれも複数のメダルが獲れるということで、多くの方に注目していただいた。そして、「さあ、ソウルも」というタイミングで、私が前年に勝ってソウルの五輪代表になることができました。

辛:本当にいいタイミングというか流れで、当時は最高の盛り上がりでしたね。

小谷:自分でタイミングを計ることはできないですが、私がシンクロを始めたときにどうして育てられたかというと、ちょうどシンクロの普及が始まって年齢別の大会が出来て、そこでパッと出場した私が優勝した。しばらくすると年齢別の国際大会が創設されて、その大会にも日本代表として出場してメダルが獲れたという感じで、シンクロ競技にご縁があったんでしょうね。だからこそ、何か自分が関わってお役に立てることは、シンクロナイズドスイミングの選手たちのためにもやっていかないといけないという気負いもあるんです。

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