選手インタビュー

冨田正一さんインタビュー

冨田正一さん 冨田正一さん アイスホッケー 1960年スコーバレー

ここに、冬季スポーツの分野で日本と世界をつなぐのに欠かせない人物がいる。
疎開時代に受けたいじめの経験、アイスホッケー界において東京出身者であること、そして世界のアイスホッケー界における日本の立場、常にハンディキャップを背負う場に居合わせながら、それを人生のプラス材料にしてきた冨田正一。
どんな時でも逃げずにチャレンジすること。
彼の72年の人生は、そのことの尊さを教えてくれる。

【直感したアイスホッケーの素晴らしさ】

広報スタッフ:冨田さんは東京のお生まれということですが、アイスホッケーという競技に出会われたきっかけから教えていただけますか。

冨田:私は東京生まれ東京育ちですが、小学校6年間は疎開で5つの学校に移動して、いい思い出があまりなかったんです。中学は明治大学付属中学で、明治大学には強いアイスホッケーのチームがありまして、外国のチームが日本に来た時に、オール明治と後楽園で試合をしたんです。中学の3年生の時だったか、その試合を観て、こんな素晴らしいスポーツがあったのかと。アイスホッケーの特徴は、陸の上と違って氷の上でスケートを履いて非常にスピーディに動くので、ものすごく早い意思決定が必要で、その決断がいいプレーにつながる。直感的に男のスポーツだなと。速い、勇敢な、格闘技でありながら非常に精巧な訓練が必要だということを、小さいながらも感じたんですね。

広報スタッフ:中学3年生でですか。

冨田:ええ。中学時代はスポーツが好きで講道館へ通って柔道もやっていましたし、テニスもやっていましたが、アメリカのチームとの試合を観た後に、「これだ!」と思って、ほかのスポーツを辞めてアイスホッケーをはじめました。

広報スタッフ:スケートとか氷の上に乗った経験はあったのですか?

冨田:明治高校にチームがあって、中学3年生でもやりたい人は呼んでくれたんです。後楽園や日活のスポーツセンター、新宿のスケート場で、大学の指導者による高校生のチームもあって、大学のチームにタオルを運んだりするお手伝いを高校生もやらせてもらっていた。私も友達に連れられて後楽園で滑っていたものですから、そういう所へ遊びに行っていました。

広報スタッフ:では、高校生になってから実際に競技を始められたんですね。

冨田:高校生になってからはちゃんと部活動として明治高校のアイスホッケー部へ所属して、実際に競技に入りました。ゴールキーパーのやり手がなかなかいなくて、新人だったものですから、お前はゴールの前に立ってろと言われまして(笑)。

広報スタッフ:では、ゴールキーパーはご自分の希望というより、やらされたんですね。

冨田:最初はやらされていましたが、やってるうちに非常に奥が深いと。ゴールキーパーは守る人というイメージが強いんですけれども、明治大学を卒業して岩倉組に入った時に、攻めのスタートであるということを嫌というほど学びましたね。ゴールキーパーというのは本当に大事なポジションだと思います。ゴールキーパーがよければ負けないわけです。ですから、ゴールキーパーというのはとても面白い、奥の深いポジションで、しかも試合の時には交代できず一人でゴール前にいるというポジションなので、自分に厳しく、強くなければいけないポジションだと思います。

広報スタッフ:やらされたゴールキーパーが好きになったわけですね。高校生で始められて、そのまま明治大学でも競技を続けられたわけですか?

冨田:はい、高校の練習は夜遅くか朝早いかなので、進学するには大変だから先生に辞めろと言われたんですけれど、あまり一生懸命やっていたせいか先生も応援してくれるようになりました。

広報スタッフ:そうとう打ち込まれたのですか。

冨田:明治高校の練習だけではなく、東京にある他のクラブの練習にも防具を担いで行って、氷に触れる時間を自分で増やしていたくらい。実際にやってみて、のめり込んだというか好きになりましたね。それは、アイスホッケーが素晴らしいというのと同時に、小学校時代の疎開での環境で、人にアピールしないといじめられっ子で終わってしまうという経験があったから。ネガティブな人生を送るのは嫌だったから、何かで「ここに冨田あり」を見せたかったから辞めなかったんだろうと。

広報スタッフ:そうですか。当時の東京には、そのようなクラブもあったんですか?

冨田:当時のソビエトと仕事をしていたケットという会社の社長が、東京にはスケートのクラブが少ないからと自分で「ケットクラブ」を作られていて、東京の人達に環境を与えてくれたんです。当時は実業団の強いチームがあまりなくて、大学スポーツが中心でした。明治、立教、早稲田、慶應というような大学がとても強くて、早慶戦、明立戦というのが一つの華のゲームでした。北海道や東北から上手い選手が大学に集まっていましたし、その時代はまだ満州帰りの人達で有名な選手もいましたね。東京の選手は立場が弱かったので、パック拾いをして、大学の一流選手がみんなあがったあと、ゴールキーパーの防具を借りて15分くらい練習するような環境でした。

【東京出身のハンデを乗り越えるために】

広報スタッフ:練習に打ち込みつつも、本当に自分が練習できる時間は少なかったんですね。

冨田:少なかったです。私のように、後ろから追い付き追い越せで走ってる者は余裕がないですから、やりたくてやりたくて少ない時間でもやりたいと思う、そのことが進歩につながったんだろうというのと、私は氷の上でなくても練習できると感じたんです。それは、実家の京橋から大学の駿河台に通う時に、バスケットシューズを履いて学校へ行っていて、階段を何段も上がって下半身の強化をしたり、反射神経を良くするために2段3段と下りたり上がったり、また同じ色の洋服の人を同時にずーっと見ていくと、ゴールキーパーがパックを持った人を見ながらパックを受け取るポジションにいる相手選手を同時に見る訓練になる。それができると先手が取れるんですよ。ゴールキーパーのポジションでとても面白いのは、先手を取ると攻めになるんです。ですから、そういう練習も自分なりに考えていました。やらされてやる選手はうまくならないけれども、やりたいと思う選手はやはり進歩すると感じました。

広報スタッフ:相当な工夫ですね、普段の生活の中でも競技に生きることをやるというのは。

冨田:それはやはり、先入観で北海道の人は上手いということになっていて、東京出身というアイスホッケーのハンデを持っていましたから、どうやったら追い付いて追い抜けるか、と。普通の人と同じ努力をしていたら同じだけしか伸びないけれども、どこかで追い付くと不思議なことに、その追い付くエネルギーは追い越していくエネルギーにつながるんですね。ですから、私が感じるのは運が7割以上だということです。素晴らしい選手になれるきっかけが持てるか持てないかは、例えば正選手が病気をした時に使われて、そのチャンスでダメならば落ちてしまう。一生懸命訓練していて、いいチャンスをもらった時に力を十分発揮できることが大事。チャンスをもらえない人はそれで終わってしまう。

広報スタッフ:では、運が大事であると。冨田さんはそれを活かして来たということですね。

冨田:はい。気持ち悪いくらい運がいいんですよ。岩倉組に入った時に、岩倉巻次社長が「小運は手に有り大運は天に有り」と教えてくださったんです。大きな運は神様がくださるんだ、小さな運を自分の努力で常日頃コツコツ重ねている人が、大きい運をつかめるんだと。それは、人生の中で何回かもらえるんだそうです。それをモノにする人が成功者だと。私は家業があって帰らなければいけなかったので、岩倉組に3シーズン限定ということで入りまして、社長秘書をやらせていただいて企業経営の勉強もさせていただき、社長にお話いただいた人生哲学が今とても役に立っています。

広報スタッフ:冨田さんが大学から実業団に行かれた頃は、実業団のリーグ戦はあったのですか。

冨田:まだ大学リーグが中心でした。実業団ではまだ日本リーグの始まる前でしたから、全日本選手権と実業団選手権というのがありました。大学1年の時は補欠でしたが、3年の後半からレギュラーになって、4年の時には正選手になってオリンピック候補に名前が入った。そのことが原因で、北海道の岩倉組が私を連れて行ったんだと思います。前の年の夏休みに、「入れてください」と訪ねた時は、東京のゴールキーパーはいらないと言われて「これで自分のアイスホッケー人生は終わりかな」と思ったんですが、これまた運で。身体も小さいし恵まれていたわけではないですが、いい方々に出会ってチャンスをもらえた。岩倉組では、全日本選手権の時に正選手が風邪を引いてしまって、私が出ることができたんです。ドキドキして大変でしたけれど(笑)。

広報スタッフ:東京出身というのはアイスホッケーで生きていくには厳しい環境だったけれども、冨田さんご自身にとっては発奮材料になったわけですね。

冨田:そうですね。それから、こんな小さなゴールキーパーが対等以上に戦うためには、ものすごく軽い防具を自分で工夫しました。できるだけ速く反応できるように、マスクもしないで試合をしましたから、顔だけで14針縫ってあります。大学でインカレ優勝、実業団では全日本選手権、それから実業団選手権でも優勝しました。国民体育大会にも北海道の選手として選ばれ、これも優勝しました。それで世界選手権なんていうのは、日本が優勝するのはBグループ(世界選手権やオリンピックでのランク付け。Aグループが最高峰)でも大変なのに、ゴールキーパーで5試合全部出て優勝しました。その時のサブのゴールキーパーは、全日本ですから普通は岩倉組のナンバーワンと例えば古河のナンバーワンを連れていくんですが、私は自分のチームのサブを指名しました。他のチームのナンバーワンが来ると頼っちゃうんですよ。自分が責任持ってやらなくちゃいけないって思ったんです。当時の監督は偉かったと思いますよ、それでオーケーしたので。

広報スタッフ:ある意味で、自分を追い込んだんですね。

冨田:そうです。人間は、元々は弱いですよ。でも何か、小さなモチベートを持てば変わります。夏休みには河口湖の家に行っていて、毎日15㎞くらい走っていたのですが、いつも「今日はこのへんで帰ろうか」とか思ってしまう。なので、小さな石を持って折り返し点に置いてくるんです。そうすると、次の日はそれを取りに行かないといけないと、自分なりに言い聞かせていました。ですから、うまくなりたい、人を追い抜いて前へ出たい、そういうチャレンジする気持ちがあるといろいろ自分で工夫を考え出すんです。コーチから習う前に、自分がコーチに聞きたいという気持ちがなければ、聞いても何もならないだろうと思います。ですから7割は自分でやれ、残りの3割はそれを磨くためにプロから習えばいい。プロから聞いたって、その気持ちがなければ進歩がないだろうと私は思います。

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