選手インタビュー

中島寛さんインタビュー

中島寛さん 中島寛さん フェンシング 1972年ミュンヘン

【フェンシングの将来のために】

高橋:ミュンヘンオリンピック出場の後、何か変わったことはありますか?

中島:特別変わったことは、自分の中では感じられない。過程としてオリンピックがあったっていうだけでね。始めた時からの大きな目標ではなかったし。

高橋:戻られた後は、どうされたんですか?

中島:もう28歳か29歳だったんですよね。そこでひと区切りつけようと思ったんです。けれどもコーチが、あと2年でアジア大会だと。

高橋:アジア大会。

中島:74年にテヘランでアジア大会があったんですけれどね、そこで金メダルを取って辞めたらどうかって。日本チームに残ってそこまで何とかがんばれって言われて、74年のアジア大会まで選手を続けたんです。

高橋:74年は出られたんですか?

中島:はい。74年のアジア大会に出て、男子フルーレ団体で金メダルを獲りました。

高橋:それで引退されたんですか?

中島:そうですね。試合に関しては体力的にも大丈夫だったんですけれども、トレーニングがちょっときつくなってしまったんですよね。本当はミュンヘンでやめようと思ったんですが、何とか追いついていける感じがあったんで、74年までやりました。

高橋:その後は、コーチになられるんですよね。

中島:そうですね。

高橋:引退を決められた時は何か気持ちの変化はありましたか?

中島:いえ、別に金メダルを獲ったからでなく、さっきも言ったように感動しないタイプなんでね。何か流れでコーチになったって感じですね。

高橋:引退された後、フェンシングというひとつの世界の中で生きていく不安とかはありませんでしたか?

中島:そうですね。そういう意味ではある程度は恵まれてはいたんですよね。

高橋:その後は、モスクワオリンピックの日本選手団コーチ、ソウルオリンピックのコーチになられて。2001年ユニバーシアード日本代表チームの監督をされ、他にもオペラ、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』で、フェンシングの指導などもされてるんですね。

中島:はい、国立オペラ劇場の生徒さんにフェンシングを教えたんです。

高橋:コーチになられてからは、フェンシングを普及させていくとか、強くしていくことを中心に考えられていたと思うのですが。

中島:もうそれしかないですね。メジャーにしたいです。フェンシングは面白いスポーツであるし、日本人の特性にも合ってるような気もするんですよね。

高橋:どういう点が合っていますか?

中島:日本にも、日本刀と剣道っていう立派な剣術があるわけで、全然関連がないわけじゃないし、そういう意味では非常に日本人に合ったスポーツかなって感じがするんですよね。ただ、いかんせんタレントが少ないんですよ。

高橋:素敵なスポーツなのに?

中島:うーん、危険なイメージがあるんじゃないですかね。全く危険じゃないです。私は長い間やって、怪我っていう怪我したことないですから。全身全部覆ってますからね。

高橋:日本のトップ選手がフルタイムで練習できる環境を整えるために、資金面でもご苦労があると思いますが、北京に向けてかなり強化をしていらっしゃるのですか?

中島:はい。それはもうしました。『500日合宿』っていうのを。

高橋:『500日合宿』ってすごいじゃないですか! 1年以上じゃないですか。

中島:強化したんです。それでオリンピックには史上最多の7名の出場枠を獲得できたんですよ。それで、何人かの選手がメダル候補という風に言われてますし。我々の夢っていうかメダルを何とか北京で獲得したいなっていうのが本当大きな目標なんですよね。

高橋:すごいですよね。先程おっしゃったように、外国の人たちが日本選手の環境があんまり良くない中で、なんで頑張れるんだろうと思ってても、やっぱり根性だけでは、強くなれないって部分はありますよね。

中島:ありますね。色々なことでフェンシングの練習に専念できるように、資金面を強化していくっていうのは絶対必要な部分ですね。というのはですね、我々の頃はJOCでオリンピック出場が認められたんですよ。ところが今は、ワールドポイントを取らないと出られないんです。だから、そのワールドポイントを取るためには、世界各地で行われているワールドカップに出場してポイントを取っていかなきゃいけないんですよ。

高橋:それは、大変なお金がかかりますよね。

中島:そうなんですよ。それも1年間で最低10回くらい行かなきゃいけないんですよ。

高橋:毎月1回くらいは行かないといけないじゃないですか。

中島:そうです。でないと、ワールドポイントって取れないんですよ。だから先程おっしゃったように、資金面の調達っていうのが、本当に必要不可欠。

高橋:そうですよね。選手がアルバイトしながらでは、とても無理ですよね。行くだけでも。

中島:そのような選手もたくさんいるんです。実は、フェンシング協会では全選手をバックアップはできませんので、ある程度可能性のある人しか全面的にバックアップできないんです。

高橋:それはそうですよね。オリンピック出場できる可能性を秘めた方じゃないと無理ですよね。

中島:そうです。

高橋:でも例えば、まだすごく小さい人で、才能のある人もいらっしゃるわけですよね?

中島:はい。『競技者育成プログラム』っていう形の、発掘とか育成とか、強化はしてるんですよ。

高橋:ああ、なるほど。

中島:はい。全国的にはちびっこのフェンサーっていうのはすごく増えてますからね。

高橋:イベントでお子さんに教えられたり、体育の日に『元気アップこどもスポーツフェスティバル』でフェンシング教室を開かれたりしていらっしゃいますね。

中島:はい。時間が限られてますから、そんなに詳しく教えたりすることはできませんので、フェンシングっていうスポーツの啓発っていうか、宣伝っていうかね。知っていただくための、フェスティバルですよね。

高橋:でも、フェンシングって高貴なイメージがあって、実際にやるとなると確かに敷居が高いような気はしますよね。

中島:具体的な話になっちゃうんですけれども、道具なんかでも、1回買えば相当持つ、びっくりするほどお金かかるっていうような競技ではないんですけどね。

高橋:なるほど。でも例えばアイススケートであっても何であってもどうしてもお金がかかってきますよね。

中島:そうですね。

高橋:これから日本フェンシング協会副会長としての、ご自身の目標や夢と協会としての何かこれからやっていかなければいけないこととか、やりたい事とか教えていただけますか?

中島:そうですね、とにかく国際競技力の向上なくして、フェンシング協会の将来はないという風に考えているんですよね。ですから、そういった若い優秀な選手の育成・強化をきちっとできるような体制ができるような努力はしていかなければならない。一般の方たちに対しても宣伝・啓発して、フェンシングの素晴らしさとかっていうのを、もっともっと知ってもらえるような活動をしていかなきゃいけないんじゃないかなと思ってますね。

高橋:それがご自身の目標でもあるんですか?

中島:目標でもあるし、協会としての目標でもあると思うんです。

高橋:あと北京オリンピックの事をお聞きしたいのですが。メダル候補の方を少し教えていただけますか?

中島:北京オリンピックには、個人戦に6種目7人の選手が出場するんです。男子フルーレの太田雄貴選手、千田健太選手、それから男子エペの西田祥吾選手、男子サーブルの小川聡選手、女子サーブルの久枝円選手、女子エペの原田めぐみ選手、女子フルーレの菅原智恵子選手、この7名。まあ、太田選手っていうのが、ワールドポイントで今7位くらい、世界のランク7位くらいにいるんですよね。

高橋:すごいですね。

中島:各種目ともそうなんですけども、大体15人から20人くらいの選手に優勝のチャンスがあるんではないかという風に言われているんですよ。それで、千田選手も、15、6位にいるんですよね。ですからこの2人は、協会としてメダルを期待してる選手なんですよね。

高橋:はい。

中島:その他にも、男子エペの西田選手、女子フルーレの菅原選手ですか。あと、女子サーブルの久枝円選手っていうのがいるんですけど、これなんかもまあかなりね、外国での実績があるんで、是非メダルを取ってもらいたいなあっていう気持ちでいるんですけどね。

高橋:いいですね。

中島:その他にも、オリンピックには出ませんけどね、ジュニア世界選手権とかで優勝してる若い選手とか、結構出てきているので、これからも結構楽しみです。ただ、それをうまく育てていくのは、我々の責任だし、義務だと思ってますし、やっぱりそういう環境づくりってものが、どうしても必要になってくるんですよね。

高橋:監督は、日本人の方なんですか?

中島:監督は日本人ですけども、フルーレのコーチはウクライナ人です。オレグっていう、大変優秀な若いコーチで、情熱のある、すごいコーチです。

高橋:そうですか。じゃあ先程おっしゃったようにどこの場所であっても練習は出来ると思うのですが、実際にコーチだったり、外国の方とふれあう機会って大事ですよね。

中島:はい、絶対大事だし、やはり外国選手の情報とか、ルール変更の情報とかを、いち早くキャッチするということも必要です。そういう意味ではオレグコーチは非常にたくさんの情報をもってます。

高橋:フェンシングを日本に広めるために、何が一番必要だと思いますか?

中島:やっぱり大きな大会で好成績あげるっていうことも、我々の強化の中では絶対必要じゃないかなと思います。やっぱり彼が、彼女がオリンピックでこれだけの成績をあげたんだっていうことが知れ渡れば、オリンピックに出られなかった選手の目標にもなるし。そういう国際競技力をとにかくあげていくことが大きな要素じゃないかなと思いますね。

高橋:国際競技力をあげるためにはやっぱりコーチだったりとか。

中島:情報とか環境もあるでしょうしね。このところ各地方、都道府県で行政の力を借りて、市の体育館とかで、『ちびっ子フェンサー教室』とか、要するにスポーツ少年団とかがフェンシングっていうのをかなり取り入れてくれてるんですよ。全国少年大会なんていうと、5,600人の選手が集まってくるんです。

高橋:すごいですね。

中島:すごいんですよ。そのくらい広まってきているんですよね。だからそれをいかに、良い選手を協会として育成していくか、強化していくかっていうことも、きちっとやっていかなくちゃいけないです。

高橋:スター選手がもちろんいることと、あと裾野を広げていくっていうことですよね。最後にオリンピックとは中島さんにとって何ですか?と訊かれたら、なんとお答えになりますか?

中島:なんでしょうね、さっきも言ったようにオリンピックという特別な感情が無いままに試合をしてきたので。でも、やっぱり潜在的には大きな目標であったのかもしれませんね。ちょっとまどろっこしい言い方ですけどね。スポーツマンとしてやっていく以上、オリンピックに出場してがんばらなければいけないっていう義務。義務感。一回辞めてるわけですからね。だから普通のオリンピアンと違うんで、ちょっとやりにくいでしょ?

高橋:でも行かなかったら全然違った人生でしたよね?

中島:やっぱりね、具体的にどうのこうのっていうのはわからないんですけど、もし行ってなかったらね、悔いとかやり残した事があったかもしれません。

高橋:ご自分でオリンピアンだと思います? 普段あまり意識されてないですよね。

中島:意識してないですね。フェンサーだっていう意識は常にあるんですけどね。オリンピックの思い出はありますけどね。あの選手村での出来事とか鮮明に覚えてますからね。

高橋:どんなことを覚えていらっしゃるんですか?

中島:例えば朝早く起こされて、眠いのに目をコーチに開けられてとかね。僕ら試合開始が朝8時なんですよ。

高橋:え!?どうしてそんなに早いんですか?

中島:早いんですよ、フェンシングの試合って。それで、行くのにバスで1時間半かかるんですよ。そうすると逆算して、もう3時半とか4時には起きてなきゃならないでしょう。だから毎朝3時半か4時起きなんですよ。あとテロがあったでしょ。

高橋:そうですそうです、ミュンヘンオリンピックって大変なオリンピックだったじゃないですか。

中島:大変なオリンピックだったんですよね。セキュリティも、それまではすごく緩やかだったんですよ。で、あの事件後、各種大会物凄いセキュリティになったでしょう、そんな思い出とかですね。

高橋:ご自身はテロ事件の時はどうだったのですか?

中島:僕らは、もう試合が終わった後の出来事だったんですよね。だからそれほど知らなかったんですよね。

高橋:あまりニュースも入ってこなかったんですか?

中島:選手村自体には入ってなかったですね。

高橋:今だったらインターネットとか、携帯とかありますけど、その当時っていうのは?

中島:一切ないです。もちろん電話とかは、急用な場合にはしてたでしょうけど。一切、私は行ったら行ったきりでした。

高橋:日本が恋しくならなかったですか?

中島:もう慣れてましたから。だって10年経ってますから慣れてますよ。

高橋:朝早く起きるのが嫌とか、ホームシックだから嫌とかはないんですか。

中島:もうスポーツマンらしくないですよ、話が。僕はね、自分に甘く、人に厳しくっていうみたいな感じです。コーチになったらすごい厳しいんですよ。だからその当時のコーチの人達は僕には手を焼いたでしょうね。ほんとにダメな奴でした。反省ばかりしてます。

高橋:本当に反省してらっしゃるんですか?(笑)

中島:本当にしてます。(笑)

高橋:ファンはいらっしゃるんですか。

中島:いません。

高橋:ファンレターとか頂かなかったんですか?

中島:一切ないです。そのくらいマイナーだったんですよ。一般の人達には知られてない。ところがヨーロッパに行くと、やっぱり発祥の国だし、フットボール、サッカーとかがメジャーなんですけども、フェンサーもかなり皆に知れわたってて、例えばホテルのベルボーイの人達やタクシーの運転手が、その国の代表選手の写真を持っていたりして結構知れ渡っている。

高橋:そうですか。

中島:日本では全然ですね。だから、いずれそういう風になってほしいとは思いますけどね。

高橋:もっともっとマスコミやメディアが取り上げて…。

中島:そのためには、やっぱりオリンピックでの好成績っていうのが大きな要素になってくるんでしょうし、宣伝になってくれると思うんですよね。

高橋:そうですね。そうするとスポンサーとかが付きますし。

中島:そうなんです。選手強化のために還元できますしね。

高橋:北京を皆で応援して期待しています。今日はどうもありがとうございました。

中島:ありがとうございます。

~中島寛さん インタビュー 完~
(インタビュアー:立教大学社会学部准教授 高橋利枝)
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ゲストプロフィール

中島寛さん
中島 寛(なかじま ひろし)
1972年ミュンヘンオリンピック フェンシング男子フルーレ個人・団体に出場。
男子フルーレ団体6位入賞。
引退後は日本選手団コーチ、ユニバーシアード日本代表チーム監督を歴任。
現在日本フェンシング協会副会長として現役選手の強化とともにフェンシングの普及に努めている。
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