選手インタビュー

中島寛さんインタビュー

中島寛さん 中島寛さん フェンシング 1972年ミュンヘン

【オリンピックまでの道のり】

高橋:いつ頃からオリンピック、あるいはそういうものを意識されましたか?

中島:意識したのは大学卒業してからですね。

高橋:大学を卒業されてからですか。

中島:はい。大学のとき、インターカレッジで2回優勝してて、結構強かったんですよ。

高橋:いつ頃から凄く強くなられたんですか?まず高校の1年生の時は小さくていらした。

中島:あー、もうだめです。高校2年生まではね。1年間はまるでだめだったですね。

高橋:まったく初心者でいらした。

中島:まったく初心者だし、だめっていうのは、「あがり」って言葉あるじゃないですか。

高橋:「あがり」?

中島:あがり。あがってしまう、緊張しすぎてしまう。それで試合の内容がわからないんですよ。それで家に帰ってきて、負けたってことだけがわかって、どうして負けてしまったのかわからなかった。なんか面白くなかったですね。

高橋:そうなんですか。

中島:それで2年の中盤くらいから少しずつ、負けたこととか勝つための秘策とかが少しずつわかってきて、競技に対する興味が少しずつ沸いてきた。でもインターハイで負けて、もう辞めてしまおうかなと思ったんだけど…。

高橋:辞めようと思ったこともあったんですか。

中島:はい、ありました。インターハイで、僕は絶対優勝するつもりで行ったんですよ。ところが負けてしまったんで、「あーこれちょっとまずいなあ」と悩んだこともあったんです。でもやっぱり大学入ってもう一度チャレンジしようという気持ちになったんですよね。

高橋:大学で2回優勝されてるということは、大学でも強かったんですね。

中島:はい、一番強かったです。

高橋:東京オリンピックの時はおいくつでしたか?

中島:大学の時でした。

高橋:東京オリンピックの時が日本としては一番成績がいいんですよね。

中島:そうですね、4位です。

高橋:この時は、まだ出られなかったんですね。

中島:はい、もっと強い人がいて出られなかったです。でも、別にオリンピック出場が目標ではなかったんで、選考会で負けても、悔しいとか何の感動もなかったんですよね。全然狙ってなかったんで。

高橋:いつぐらいからオリンピックに出たいと意識し始めたんですか?

中島:卒業してから3年くらい。一般の企業に入って…。

高橋:一般の企業に入られたんですか。

中島:一般の企業に入ったんで、試合に出たり練習もできない。そうすると僕が学生時代に戦った選手がどんどん代表選手になって世界選手権とか、何とか大会に行ったとか、何とか大会で優勝したとか、ニュースが入ってくるじゃないですか。それで「あれっ」て思ったんですよね。オリンピックって具体的によくわからなかったんですけど、客観的にはスポーツの最高峰の大会だという意識があるじゃないですか。やっぱりそこに出ないとスポーツマンとしておかしいんじゃないかなという気が少しずつ芽生えてきて。それで3年間休んだ後、26歳くらいからまたフェンシングに戻り、オリンピックを目指した。

高橋:会社は辞めたんですか。

中島:はい、辞めました。

高橋:で、何かおやりになったんですか。

中島:はい、アルバイトしたり、ちょっと専門的な学校に通ったり、全然フェンシングと関係ないですがね。

高橋:関係ないんですか。

中島:関係ない資格をとるため専門学校に通ったりしながらフェンシングを2年半ですかね。

高橋:それは大変ですね。

中島:その時は大変でした。というのはね、一度抜かれてしまった選手を追い越すっていうのは物凄くエネルギーがいるんですよ。国内予選を通らないと、どうしたってオリンピックに出られないでしょ。学生の時は私の方が強かったんですけど、私が休んでいる間にウサギと亀じゃないですけどね、抜かれてしまったんですよ。抜かれた選手をさらに抜きかえすというのはエネルギーがいるんです。口では表せないぐらい大変だったんですよね。

高橋:そうですよね。当然体力というか肉体的な事はあるけれども、精神的にも3年間のブランクがあるでしょうから。それを2年半で追い越していくっていうのは凄いことですね。

中島:嫌でも追いこさないと代表になれないでしょ。

高橋:凄いですよね、そのエネルギー。でもそれだけじゃなくてアルバイトをされたり、学校に通われたりしながらやっていた。生活もしていかないといけないわけですよね。

中島:はい、だから親がかりですよね、全部。親には随分迷惑かけたんじゃないですか。

高橋:会社を辞めるということで反対されなかったんですか?

中島:それはまあ、親もオリンピックを狙うっていうので、ある程度バックアップしてくれたんじゃないでしょうかね。

高橋:それは良かったですね。東京オリンピックがあって、東京に住んでいらしたわけですよね。その時は特にオリンピックにご自分が出られると意識されなかったんですか?

中島:まったく意識もしないし、見て感動もしなかったですね。

高橋:でも、大騒ぎしてやってるわけですよね。

中島:はい。ただ普通に外国の人が来てやってるなという感じで観客席から見てましたね。

高橋:でも観客席には行かれたんですか?

中島:もちろん。観客席に何回も行きました。

高橋:観客席で見ていて、そこに自分が出たかったとか、次は自分がそこに立つぞとかはなかったんですか?

中島:何もなかったですね。ただ見てただけですね。試合は好きでしたから。試合は別にオリンピックとかじゃなくて外国人とやったことなかったですからね。やったらどうなのかなっていうのはありましたけど。自分ならこういうふうに戦うとか、ああいうふうに戦うとかっていう観点では見てましたけどね。

高橋:雰囲気が普通の試合と違うっていうじゃないですか。

中島:多分出た人じゃなきゃわからないんじゃないですか?

高橋:そうですか。観客席ではわからないですか?

中島:わからない。

高橋:そうなんですか。

中島:私はわからなかったです、わかる人もいるんでしょうけどね。

高橋:皆さんオリンピックは世界選手権とかと全然違うものだとおっしゃるんですけど、それがどう違うのかはどなたも「いやいや、ただ違うんだ」と言われて。だから最初、東京オリンピックを見られた時にそういう風にお感じにならなかったのかなって?

中島:あんまり僕は物事に感動したりする感性がなかったんだと思います。

高橋:そんなことはないと思いますけど。でもすごく不思議だなと思って。3年間のお勤めの間は一切フェンシングはされなかったんですか?

中島:時々母校に行って指導したりするぐらいで専門的にチャンピオンシップを狙うとかね、そういう練習じゃなかったですね。単に遊び程度でやるくらいで。例えば、後輩の学生を教えたりするぐらいで、目標に向かっての練習は一切していなかったです。

高橋:この後に2年半。会社をお辞めになってからもう一度フェンシングを本格的にオリンピックを目指して始められた時というのは良いコーチがいらしたのですか?

中島:それまでも私の先輩の山本耕司というミュンヘンオリンッピックの監督がいて、その人の道場でレッスンを受けていたケースが多いですね。あとは大学の練習に行ったりというような感じでしたね。

高橋:やっぱり法政大学っていうのは相当レベルが高かったんですよね。

中島:はい、高いです。

高橋:そこに行くだけで、かなり日本の中ではトップレベルでした?

中島:はい。でも自分の意識の中でモチベーションっていうか、目標がしっかり決まったトレーニングと、そうじゃないトレーニングとがありますから。

高橋:なるほど。

中島:それは法政大学に行かなくても自分でしっかりモチベーションを持ってれば身に付くことであって、ある程度狙いを絞ったトレーニングっていうか練習はしたんじゃないかなって感じがしますね。

高橋:その2年半で、一気に追い越して1972年のミュンヘンオリンッピックに出場されたんですね。

中島:はい、そうです。

高橋:そうすると、東京オリンピックの次の次になるんですね。メキシコがあって、ミュンヘン。

中島:メキシコ大会の選考に落ちたことが契機になったこともある。もちろん何も準備してないから負けるのは当たり前ですが、私が今まで上にいたのに追い越されてメキシコに行かれてしまったのにちょっとショックを受けたんですよ。

高橋:確かにそうですね。自分の方が上だったわけですからね。

中島:上だったのに、それは準備してないから負けるのは当たり前だったんですけど、「あれ、彼らが代表?」っていうようなね。

高橋:そうですよね。

中島:だからここだけの話ですけど、僕が行かない代表チームはないって思ったぐらい自信があったんですよ、実はね。何で中島が行かないのに日本代表なのって、そのくらい自負があったんですよ。何もしてない癖にね。生意気ですね。

高橋:でも、実力があったから。

中島:僕もそう思ったんですよ。

高橋:それで、会社をお辞めになったんですか。

中島:そうです。

高橋:なるほど。でも選考ってやっぱり色々なものがあるわけですよね。その時の実力だけじゃなくてそれまでに試合で、いくつ勝っていったとか、そういうものがあって、選考に選ばれるんですよね。

中島:そうですね。選考会は色々なやり方があるんですが、いわゆる国内選考会は、その当時は5回あったんです。

高橋:5回もですか。

中島:5回あって、最終選考会で5番以内に入らなければ代表になれないっていうような方法で、6位になると、代表からはじかれる。

高橋:どうしてですか?

中島:それは点数制じゃなくて、それまでの選考会っていうのは要するに、強いやつがみんなで集まって切磋琢磨して、実力をあげようっていうような狙いが協会であったんでしょうね。最終選考会で5番に入らないと、外されるっていうような決まりだったんです。

高橋:だったら最後だけでいいじゃないか、って思いますが。単純に。(笑)

中島:単純に。今思えばそうなんですけど。

高橋:5回だったら、1回ずつそれを加算して、っていう風に。

中島:ですから今は、色んな大会をジャパンの点数とか、最終選考会の点数とか、ポイント制で加算して代表選手を選んでいるみたいですけどね。まあそれもちょっと良し悪しなんですけどね。計算しちゃうでしょう。

高橋:そうですね。

中島:「僕はもうここで7位になっても代表だ」とかね。そうすると甘い試合になっちゃうでしょう。だからね、それも良し悪しなんですよ。

高橋:なるほど。

中島:だから今考えれば最後の一発勝負で、バチッと決めるっていう方が、かえって良かった。

高橋:はい。

中島:岸記念体育館、あそこの地下3階でやったんですよ。今でも覚えてますけれども、ちょっと薄暗い体育館だったんですよね。(笑)

高橋:そうなんですか。(笑) じゃあ選考会は全部1位だったんですか?

中島:全部1位でした。

高橋:それは素晴しい。

中島:はい、選考会では強かったですよ、かなりね。

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