選手インタビュー

中島寛さん 中島寛さん フェンシング 1972年ミュンヘン

「オリンピック出場はスポーツマンとしての義務」と語る中島は、一度引退した3年後、見事にオリンピック出場を果たした。
ヨーロッパが発祥の地であるフェンシング競技で世界と戦う中島にとってオリンピックとは何か聞いた。

【フェンシングとの出会い】

高橋:まずお伺いしたいのですが、フェンシングを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

中島:そうですね、小さい頃から、頭を使うことより体を動かすことが好きだったんです。(笑)
当時は小学校でスポーツをやる機会が少なかったので、近所の子どもや同級生と近くの川で泳いだり小さな山に登ったり、とにかく体を動かすことが好きで。

高橋:お住まいはどちらでしたか?

中島:世田谷です。

高橋:世田谷に川はないんじゃないですか?

中島:あったんですよ、森とかね。木に登ったり、川で遊んだり、魚捕まえたりっていうことが好きでした。でもスポーツは具体的にやる機会がなくて、中学に入ったら運動部でスポーツをやろうかなって漠然と考えていたんです。でも色々クラブを見てまわると練習をしているというよりも、上級生が下級生をいじめているように見えてしまったんですよね。何でスポーツを楽しくやらないのかなって思ってました。

高橋:なるほど。

中島:上級生が下級生を正座させて叱っている光景が、結構目についてしまった。それで僕は、スポーツをやるのに叱られに行くのは嫌だと思って、中学時代は一切クラブに入らなかった。その後、入った高等学校が、たまたまスポーツの盛んな法政大第二高等学校だったんです。

高橋:スポーツが盛んだったんですか?

中島:盛んでした。全国大会、インターハイで、野球を含めて四つぐらいのクラブが優勝するような学校でした。

高橋:そうなんですか。

中島:そうなんです。何かスポーツをやらなきゃいけないなという気持ちがあって、どこに入ろうか迷って。夏休み近くまでそういった状態が続いてたんですよね。ある日、フェンシング部の同級生に「フェンシングやらないか?」と誘われたんです。フェンシングってなんだろうなと思いました。

高橋:その時まで知らなかったんですか?

中島:はい、全然知識がありません。ただ、映画館で『花咲ける騎士道』っていう西洋映画を観て、日本のチャンバラと違って軽やかでいいなとは思ったんです。でも、これをやりたいなという形で観たわけではなくて、ただかっこいいなっていう印象はあったんですね。

高橋:おいくつくらいの時ですか?

中島:中学の2年か3年くらいですね。

高橋:中学生で映画館に行くってすごいですね。

中島:そんなことないですけどね。その『花咲ける騎士道』っていう映画でちょっと印象に残って。だからフェンシングやろうって訳じゃないんですよ。 たまたま誘われて見に行ったのがフェンシングだったというだけで、同級生に誘われた時に入ろうって決めたんです。その時の彼の誘い方がうまかったんです。 我々男子校なんですけど、法政女子高っていうのがあって、女子高のフェンシング部っていうのは美人が入るクラブで有名だと。それで週に土曜日一回は合同練習があるぞって言うんです。 はい、じゃあ入りますって否応なしに入ったんです。(笑)まあ、だから動機は不純っていうか…。
よくインターハイのチャンピオンになりたいとかね、オリンピックに出たいとかそういう希望を持ってスポーツやる人って結構多いじゃないですか。でも僕は全くそういうのはなかったですね。 目標とかはなくて、ただ何となくぶらっとしているのがちょっとまずいなというだけでフェンシング部に入ったということ。それと中学の時にクラブに入ってないし、スポーツは特別やってなかったので、まあ用意ドンで始められる競技ということで…。

高橋:なるほど。

中島:まあ、それは結果論なんですけどね。狙ったわけじゃないですから。

高橋:例えば水泳とかだったら3歳から始める場合もありますよね。

中島:今は小さい時から始めているフェンサーも多いんですけどね。その当時はとにかく高校から始めるのが一番早い出発点だったんです。

高橋:そうだったんですか。
フェンシングが伝わったのが昭和7年で、フランス留学から帰られた方がYMCAと慶応と法政の大学生に教えたとか。というと法政はやはりフェンシングの伝統っていうのはあるんですか?期せずして素晴しいところに入られたんですね。

中島:はい、たまたまね。

高橋:そうなんですか。その時は、まだそんなオリンピックとかフェンシングの道に進むってことは考えてなかったんですね。

中島:はい、全く考えてないです。フェンシングって見た目よりちょっときついんですよ。

高橋:見た目軽やかにやってらっしゃいますが。

中島:真っ白のユニフォームを着て、ダンスみたいに軟派なスポーツじゃないかって言われたり、私も実は思ってたんですけど、実際には非常に過酷な訓練があって。特にインターハイで優勝するようなチームだったんで、練習は厳しかったんです。

高橋:背がお高いですよね。身長は何cmなんですか?

中島:180cmです。フェンサーとしてかなり背が大きいんですけれども。

高橋:180cmもあるんですか。

中島:でも、始めた頃は、近所の人たちにチビチビっていわれるくらい小さくて細くて。高校に入った時は163cmで体重が43kgしかなかったんですよ。

高橋:細くていらしたんですね。

中島:本当、もう細くて。だから「もつかなー?」とか言われてました。結構厳しかったですね。何も運動やったことないし、いきなり入っちゃったんでね。

高橋:そうですよね。

中島:でもやっぱり辞めないで済んだっていうのは、今思うと、とっても優しいっていうかね、愛情のある、尊敬できる先輩が多かったっていうこともありますね。クラブに入ると一学年上でも、ものすごい大人に見えたんですよ。

高橋:そうですか。

中島:はい、やることなすこと凄い大人に見えて、こういう人たちになりたいなって思っていたんです。週に一回くらい何か違うことを話してくれたりすることがあったんですよね。今思えばくだらないことなんですけどそれが凄く新鮮で、嬉しくて、僕に話してくれたってのがね…。だからそういった魅力がスポーツ以外にも人間関係であったんで、続けられたのかなっていう感じがしますね。

高橋:最初におっしゃられた、その正座して先輩がっていう人間関係ではなかったんですね、練習は。

中島:練習中はそれ以上の厳しさがありましたけど。

高橋:練習中はやっぱり大変だったんですね。

中島:それはもちろん大変だったんですよ、練習中は。でも、練習が終わればね、例えば帰り「お前ら今日は疲れたろう。あんみつをおごってあげるよ」とかね。まあ今思えばね単純なことなんですけど、それが凄い感激したとかありますね。

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