選手インタビュー

小掛照二さん 小掛照二さん 陸上(三段跳び) 1956年メルボルン

【世界記録樹立の栄光から一気に奈落へ】

高橋:1956年に世界新記録を出されたのですが、その時のお気持ちというのはどうでしたか。

小掛:その時はすでにオリンピックの代表が決まっていました。日本選手権が仙台であったのですが、ケガをしなければいいやという気持ちですごくリラックスしていたのです。それまでは田島さんの記録を何としても破ろうという気持ちだったのですが(笑)。(15m)96cmとか、その辺りまではいくのですが、どうしても16mが跳べなかったのです。オリンピックの代表になったし、最後の日本選手権はすごくリラックスできたことが大きかったのではないですか。

高橋:リラックスしたら世界新記録が出てしまったと。

小掛:ええ。いつも砂場に世界記録の旗が立っていて、その次に日本記録の田島さんの16mの位置に立っているのです。いつも16mを見て、田島さんは20年も前にすごい記録を出したのだなと思っていたのです。いつも「はあ、長いな」とね(笑)。そうしたらその日は16mがすごく短く見えたのです。それで「これは間違いなく16mありますか」と言ったら、審判が「間違いないですよ」と言ったのです。僕は、「あっ、今日は出た」と。

高橋:では、跳ぶ前から今日は記録が出ると思ったのですか。

小掛:ええ。それまで、高跳びの高さが低く感じる時は体の調子がすごくいいという経験がありましたから。それで、2回目に着地したら日本記録と世界記録の旗が後ろにあったのです(笑)。それで大騒ぎになって。競技がいったん中断されて、それはもう大変な騒ぎです。戦後は世界記録なんか出ていないですから。

高橋:そうすると、その後のメルボルンオリンピックには期待がものすごくかかったわけですよね。

小掛:世界記録ですから、一気に優勝候補に挙がったわけですね。10月7日に世界記録を出して、1週間後の15日から静岡でオリンピック代表の合宿があったのです。そうしたらもうマスコミがすごかったのです。特にカメラマンがいっぱい来ていて、「軽く跳んでくれ」という指示に従って何度も跳んでいたのですね。40mの助走ではなく半分の20mくらいで跳ぶ、写真のためのジャンプです。だけど1回や2回ではなく、各社からいろいろ注文があったりして20回以上跳んでいるうちに、土の走路が荒れてきて、くぼみに足を入れて捻挫したのです。捻挫したというのは、マスコミの皆さんは誰も気がつかなかったのです。

高橋:そうなのですか。言わなかったのですか。

小掛:言う必要はないです。びっこもひかない程度だったので、我慢していましたから。それで、すぐ監督の西田さんに「捻挫してしまった。どうしましょうか」と言って、指導していただいていた織田幹雄さんにも相談したのです。これは発表しますか、それともまだオリンピックの三段跳びまで40日近くあるから、僕は治るのではないかと言ったのです。西田さんは「ここで軽い捻挫をしたということを発表したほうが、かえって君は気楽になるのではないか。そして治療して頑張るというのがいいのではないか」というアドバイスもいただいたのですが、自分の不注意でしたし…。僕は、治せる自信がありますということで発表しなかったのです。それでメルボルン代表で一緒だった柴田(宏)君とか、今の陸連の櫻井(孝次)専務理事とか、誰も知らなかったのです。

高橋:それは、ご自分としてはすごく苦しいですよね。

小掛:だけど僕は自分の不注意だという気持ちがあったから。だからオリンピックまで、ジャンプの練習は全然できなかったのです。それで、小掛はジャンプを全然練習しないし、世界記録を出したし、あとはバネを蓄えて(笑)、一発を狙っているのだなというようにみんなは見ていました。でも、織田さんと西田さんは現地に行っても心配していたのです。現地に行って初めて軽いジャンプができるようになって、結果は8位でした。1回目、2回目に跳んだ時にまた、悪くしたほうの足を痛めたのです。だけどそれは言うべきことではないし。

高橋:では、その時も言わなかったのですか。

小掛:ですから、当時の新聞を見たら、全部「小掛はまだ若い。経験不足で緊張のあまりに力を出し切れなかった。これからは次のローマを目指して精神面でも強くしなければいけない」となっていました。

高橋:でも、それだけのことを隠して跳んでいるわけですから、相当精神面は強いと思います。でも、そんなことは言えないですよね。

小掛:ですから記者会見も勘弁してもらいました。終わってからもずっと、僕は言うべきことではないと思っていました。ただ、6年ぐらいしてから織田さんが「小掛はかわいそうだった」ということで言われたのですが、僕はやはり今でも、オリンピックで負けると選手が言い訳することは絶対にあってはいけないと思っています。戦うのは選手ですから、風がどうだったとか、これはもう言い訳ですよ。僕はそういう信念をずっと持っていました。その後、僕は監督やコーチでオリンピックに10回参加して「言い訳は絶対にだめだ」と選手に言ってきたのですが、やはり中には靴が悪くて血豆ができたとか言っている記事を見たりすると、何を考えているのだと思いますね。4年に1回のオリンピックで、選手としてテストして出るのは当たり前ではないですか。それを靴のせいにするのは最低だと。今でも、そういう言い訳は選手はしてはいけない、負けは負けなのだから、それを選手が言ってはいけないと思っています。

高橋:ただ、今でも期待される選手のところにマスコミが押し寄せていって、大会の前でも取材、取材で練習のじゃまをされるということがよく起きるではないですか。

小掛:これは選手も嫌な場合もあるでしょうが、注目されているのだと、うまくプラスのほうに僕は切り替えるべきだと思いますね。パリの世界陸上の前に、室伏君が雨の日の練習で転んで、世界陸上を休ませてくれという考えでおやじさん(室伏重信コーチ)と来たのですが、僕はだめだと言ったのです。翌年がアテネオリンピックですから、パリへは行って、治療して、競技に出られなくてもいいではないか、選手がいるだけでいいのだと言って、休みたいと言う室伏君に僕は強引に(ケガのことを)発表させたのです。それでマスコミがみんな知って、その中でどのように室伏が治療し、競技を戦うかと注目された。そうしたら銅メダルですよ。おやじさんと本人が僕のところに飛んできて、「先生の言われることが正しかった。大きな自信になった」と言ってくれて…それで翌年に金メダルでしょう。だから僕も、発表していい場合があるのだなと感じたわけです。僕は最後までケガのことを言わなかったのですが、後で考えるとやはりあの時に発表していたほうがよかったなという反省もあったものですから、室伏君には発表しようと言ったのです。室伏君は発表せずにやってみたいと言ったけれども、発表して、みんなが知った中で評価してもらえるのですから。

高橋:ああ、なるほど。

小掛:これも私の経験ですよね。

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