選手インタビュー

森田淳悟さん 中田久美さん 森田淳悟さん バレーボール 1968年メキシコシティ 1972年 ミュンヘン 中田久美さん バレーボール 1984年ロサンゼルス 1988年ソウル 1992年バルセロナ

【日本バレーの強化体制】

広報スタッフ:選手の育成方法や指導方法というのは、今の時代で変化してきているのでしょうか?

森田:今はJOCが一貫指導システムというものをやっていますね。いろんな競技がJOCの指導のもとに、選手をいわゆるピックアップして強化するのではなくて、その前の"発掘"するとこから始めるわけ。そういう面で強化体制ができつつある。わかりやすいところではフィギュアスケートがそうで、小さい頃からどんどん素質のある選手を発掘してるよね。バレー界もJOCの指導で始めて、優秀な選手を拾い上げて強化して、引っ張っていくっていう体制によって、そろそろ芽が出てきたかなっていうのが、男子の越川あたり。これからそうやって何人か続いて出てくると思うけれど、バレー界もそういう一貫指導体制ができつつあるという気がするね。以前はそんなことはできなかったから。また、女子では貝塚にクラブができて、そういう一貫指導のクラブを土台にしながらやっていく…強化のシステムとして踏み出したという感じはするね。それは非常にいいことだと、僕は思ってますよ。以前は、中田の時も僕の時もそうだけど、オリンピックに出たら次の大会はまた強化していけばいいという感じで、オリンピックごとで強化というのは終わっていた。だから、とうとう男子バレーは(オリンピック出場が)途切れちゃったんだよね。今のような考え方になっていれば、継続して選手が育っていくことができたと思う。これからもっと層を厚くしていかなければいけないんけど、少子化とサッカー熱、それからプロという野球の根強い人気があるし、中学校の中にはもう男子のバレーのチームがないという状況もある。大きい選手はみんなバスケットに行ってしまうとか。このようなことが、非常に今後のバレー界にとって厳しい現実かなと思う。僕らの時っていうのはやはり強かったし、強ければ当然人気が出るし、学校の中でもバレーの話題が多かった。今はそういうものがないから、昔の通信簿の点数で言えば体育で5の子がバレーボールをやったんだよ。今はそういう子がサッカーとか野球に行ってしまう。人気を取り戻すには、まず最低でもオリンピックに出なければいけない。だから女子で次から次へといい素材が出てくるというのは、やはりオリンピックに出場して、頑張ってきたのを子供たちが見てきたからだろうね。

中田:そうですよね。やはりナショナルチームは強くなければいけないと思います。

森田:もう一つ、日本の教育の問題もあるかもしれないね。海外の大学では、簡単に休学できて簡単に復学できる体制がある。日本は、年度の境目じゃないと復学できない。だから、今後の強化を考えると、やっと日本でもナショナルトレーニングセンターが完成することになりましたが、オーストラリアのAISというナショナルトレーニングセンターはその中に学校を持っていて、ジュニアから選手たちが集まって勉強して、単位を取って自分たちの地元へ帰っていくという、オーストラリア全体とAISの学校が成績に関して互換性を持っている。そのあたりの体制も、しっかり整理しておかないといけないね。

広報スタッフ:指導という面でのお二人の現在の活躍をお聞きしたいのですが、森田先生は日本体育大学のチームをご指導されていて、中田さんはバレーボール教室という形でのご指導ですか?

中田:そうですね、依頼が来たらというものなので、不定期です。小学生からママさんまで、バレーボールの楽しさを教えるという感じですね。

森田:僕は、これだけキャリアを持ってる人だから、ユースでもいいしジュニアでもいいからナショナルチームをスタッフの一員として見ていったほうがいいと思うよ。それなりの財産になるしね。メダルを取ったような人たちは、それなりのことを習って頑張ってやってきて、その結果も持ってる。「コーチ術」と「コーチ学」というのがあるけれど、彼らや彼女たちはその"術"を持ってるんです。その術をきちんと、次へつないでいく義務があるし、本人がもっと望みたいと思ったら"学"を学べばいい。中田さんはその"学"を学んでいるところだよね?

中田:はい。

広報スタッフ:将来的には、そういった指導者を目指しているということですか?

中田:はい!それだけですね。今はテレビの仕事をしていますけれど、目指すところの軸は絶対にぶらさないようにと思ってます。

森田:意志があるんだから、どんどんそういう場に飛び込んでいったらいいよね。

中田:そうですね。今も全日本には仕事でかかわっていますけれど、取材をしなければいけないという立場で見ています。指導者の勉強は自分のための勉強です。

広報スタッフ:指導経験は森田先生は非常に長いわけですけれども、現役を辞められてからすぐ指導の立場になったのですか?

森田:34歳の時に引退して、やはり1年間はバレー教室で、各地に講習や講演に行って、監督になって20年くらいかな。大学生の指導は面白いよ。17~18歳の坊やから、21~22歳の生意気になってくる青年を扱うわけだから。僕は、どっちかというと基本をしっかりやらせることを大事にしているね。基本というのは、やる本人もそうだけど、教える側も時間がかかるしつまらないもの。でもそれをきっちりやっておかないと、伸びる選手も伸びない。僕はユニバーシアードとか、大会が重なった時のナショナルのセカンドチームを見たりしたことがあるんだけれど、若い世代を受け持つ監督というのは、練習だけやらせればいいというものじゃないから難しい。生活指導もしなければいけない。昔、大松博文(元全日本男子監督)さんがスパルタで"オリンピックの鬼"なんて言われたけれど、今はどちらかというと、指導者の資質ももちろん重要視されるけど、やる側の選手たちがその能力をきちんと発揮してるかどうか、ここに勝負がかかる。甘い考えで入っていくのではなくて、本当に強いパワーを持って、合宿なり試合なりを自分でつくっていくことをしないとダメだよね。やはりぶっ倒れるまで、現場に行ったら果敢にトライするということをしなきゃいけないと思う。宇津木妙子(前全日本女子ソフトボール監督)さんも言ってたけれど、「練習は嘘をつかない」って。練習でサボったらそれが試合で出る。きちんとやっていれば、やはりコートの中に現れてくる。それはやはり自分たちが、身を持ってやっていかなければいけない。一生懸命やってもそれがコートの中で伝わってこないとか、結果が出ないということは、その中身になんらかの嘘があると思う。

中田:私は小学生あたりには、技術的とか勝ち負け云々よりもバレーボールの面白さというもの、ボールで楽しんでもらえる、バレーボールに興味を持ってもらえるような感じでやっていったほうがいいのかなという感じがするし、ママさんはママさんで、オリンピックに出るわけでもないので、長く、楽しく続けられるようにと思ってやっています。でも、一つのチームをじっくり指導してみたいというのもありますね。今はまだ勉強する期間です。やはり下準備というのはすごく大事だと思いますし、指導者というキャリアがないですからちゃんと勉強してやらなければいけないことだと思うので、今は自分なりに、自分の目標に向かって準備をしているという感じですね。

広報スタッフ:では、今の夢というのは何ですか?

中田:最終的には、オリンピックに行きたい。もう1回世界と戦いたいですね。オリンピックは見るものじゃないです、出るものです。辛いことはすごく多かったけれど、それは当たり前のことなんですよ。夢を達成するというのは、そんな簡単ではない。だから、挑戦したいんです。

広報スタッフ:監督として、指導者として挑戦したいということですね。

中田:現役をやめてもう12年くらいたちますけれど、ずっと何も見つからなかったんですよ、自分の中でバレーボールと同じくらいパワーの出せるものって。色んな仕事をさせてもらいながら、なにか物足りないという感じで首を傾げるしかなかったんです。でも今の事務所に入った時に、事務所の女社長が、「バレーボールで生きてきたんだから、バレーボールをもっと磨いたほうがあなたらしい」って、ポーンと背中を押してくれて。過去の栄光を引きずるということではなくて、今まで経験したことを、さらに磨きをかけるんだと。そういう人生があってもいいでしょ、ということをおっしゃってくれて、「ああ、そうだな」って思えて。何の仕事をしても、"元バレーボール選手・中田久美"じゃないですか。だから、バレーボールを取っちゃったら私の中には何もないと思ったし、それが一番自分らしいかなと思って。やっぱり強い日本になってほしいと思うし、バレーには一生関わっていきたいですね。自分を育ててくれた場所なので。バレーボールが本当に大好きで、多分、指導者としてバレーボールを見た時に、またいろんな発見があると思うんですよ。それが何なのかはわからないですけれど、いろんな勉強ができると思うんですね。そういうことを吸収して、自分で成長していけたらいいんじゃないかな、というふうに思ってます。

広報スタッフ:指導者の先輩として、森田先生は指導者になってから、プレーヤーの時とは違う見方はありましたか?

森田:やはり指導者としては、選手に勝たせてあげるということを常に考えてあげなければいけないよね。勝たせてあげるということと、その過程で育ててあげなきゃいけないという、この2つが指導者の仕事。そういう面で、心理学なども含めていろんなものを勉強しておかなければいけないということです。指導者というのは、選手にできる範囲でいろんなことを経験させてあげる必要がある。僕は、大学でも全日本でも本当にいい指導者に巡り会えた。基本を徹底的に教えてくれる先生であったし、バレーをしながら人生勉強もいろいろさせてくれた松平さんという人もいたし、そういう人たちに出会えなかったら今、若い選手にどういうことをやってあげようとか、そういうものが自分ではわからなかったかもしれない。だから僕は今、日本オリンピアンズ協会の理事をやらせてもらっているけれども、現役時代に応援してもらったいろんな方々に、恩返しというか…恩返しと言ってもその人には返せないけれど、指導者になりたいとか目標をもっている人たちにいろんな場を設けてあげて、その先の人生を何らかの形で協力してあげたいと思う。

中田:よろしくお願いします(笑)。

森田:よろしく(笑)。日本オリンピアンズ協会も、これからいろんな面で変わっていくと思うし、いろんな幅広い運営ができると思うので、期待しています。

広報スタッフ:長時間にわたり、興味深いお話しをいろいろと聞かせていただきまして、ありがとうございました。

~森田淳悟さん&中田久美さんインタビュー 完~
(編集:広報スタッフ)

ゲストプロフィール

森田淳悟さん
森田 淳悟さん (もりた じゅんご)
1947年8月9日生まれ。北海道出身。日本オリンピック委員会選手強化本部常任委員、日本オリンピアンズ協会理事・事業委員長、日本バレーボール協会運営理事。北海道出身で、日本体育大学時代に全日本に選出。1968年のメキシコシティオリンピックで銀メダル、1972年のミュンヘンオリンピックでは金メダルを獲得した。日本鋼管に入社後は日本リーグで活躍し、現役引退後は1981年に母校である日本体育大学の監督に就任して後進の指導に当たり、全日本大学選抜チームの監督も務めた。2003年にバレーボール殿堂入りを果たしている。
中田久美さん
中田 久美さん (なかだ くみ)
1965年9月3日生まれ。東京都出身。タレント、スポーツキャスター。当時のバレーボール日本代表監督であった故・山田重雄氏が設立したL.Aエンジェルスの二期生で、若冠15歳にして日本代表に選出。1981年に日立に進み、日本リーグで新人賞に輝く。1984年のロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得、続く1988年ソウル、1992年バルセロナと3回のオリンピックに出場した。1996年に日立ベルフィーユのアシスタントコーチを務めたが1997年に日立を退社、スポーツキャスターやタレントとして活躍しながら、全国各地で講演やバレーボール教室開催など普及活動に尽力している。
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