選手インタビュー

横山謙三さん 横山謙三さん サッカー 1964年東京 1968年メキシコシティー

【サッカーどころ・浦和に生まれて】

広報スタッフ:横山さんの場合、サッカーを始められたきっかけは何だったんですか?

横山:僕は地元の、浦和市(現:さいたま市)の小学校に行ってたんですけどね、何年頃かな…まぁだいぶ前ですよ、50年以上前の話し(笑)。昭和24年か25年ぐらいに小学校に入ったんだけれども、その時にもう既に、僕が行ってた常盤小学校っていう学校にはサッカーのゴールがあったんですよ。学校に行くと朝、みんながボールを蹴ってる。ですから、小学校1年生の頃から、今で言う"ゴールデンエイジ"っていう時代にもう僕らはボールを蹴っていた。サッカーは浦和とか広島とかにある師範学校から伝わっていったので、埼玉師範を出た先生がたくさん地元にいて、僕は小学校4年生の時の担任の先生がね、サッカーっていうのはこういうものだって書いてくれたフォーメーションみたいのがあるわけ、今で言うシステムね。そういう話しを聞いたのを、今でも覚えてるんです。それは、僕がゴールキーパーをやってる時にすごく勉強になりましたね。

広報スタッフ:そのゴールキーパーになったきっかけというのは?

横山:ゴールキーパーになったのは高校の時だったんですけど、それまではセンターフォワードをやったり、今で言うとボランチとかカッコいいポジションをやってたんですよ。ところが、高校行ったらなかなか試合に出られない。ゴールキーパーが1人もいなくて、ゴールキーパーだったら試合に出られるっていうのに誰もやるヤツがいないんですよね(笑)。で、試合に出られるんならオレがやろうかって言って、やったのがきっかけ。だから、どこをやってもハシにも棒にもかからないんで、しょうがないからゴールキーパーやったというのが本当です(笑)。

広報スタッフ:高校時代からなんですね!東京オリンピックの時に大学生だったというので、もっと前からやっていたのかと思っていました。

横山:本格的にやったのは高校の3年生の時ですよ。それまでゴールキーパーの指導も受けたことなければ、練習もしたこともないし、自分自身も練習したくてもどうしていいかわかんないっていう…その頃、ゴールキーパーを教えてくれるような先生もいらっしゃらないし。僕らの学校は監督もいなかったんですよ、そんな状態だった。で、たまたま3年生の夏の関東大会の時にね、その時に岡野俊一郎っていう…この人がその年のアンダー18(ユース代表。18歳以下の代表チーム)の監督をやるということで、その頃、日本人で初めてドイツへ指導者の留学をなさって、帰ってきたところだったんですね。その時に、僕を「今度ユースの大会に連れていきたい」と言って選んでくれて…岡野さんには「お前がいるのは俺のお陰だぞ」といつも言われていますよ(笑)。

広報スタッフ:でもまだゴールキーパーを始めたばかりの選手だったんですよね?

横山:その頃はサッカーといえば浦和だったんですね。浦和が圧倒的に強くて、僕は川口の高校にいたので、川口なんかから選手は選ばないという流れだったんですけどね、岡野さんが、自分が監督をやるんで「こいつを連れていくよ」と言ってくれて。岡野さんは何回か手紙をくれてね、「ゴールキーパーってこういうトレーニングをした方がいいですよ」とか。今で言うと、フィットネストレーニングですよね。その当時は、日本にはまったくないようなトレーニングを、手紙で教えてくれて、そういうのをやってた記憶があります。

広報スタッフ:なるほど…そうすると本当に、ゴールキーパーというポジションを始めたばかりの高校生が選ばれて、鍛えられたということですか。

横山:そう、サッカーも知らなければ…小学校の時はみんなと一緒にワーワーやってたけど、中学の時はほとんどサッカーはやらなかったんですよ。ほかの競技をやってましたからね。競技をやってたというか、身体が弱かったんで小学校の時は学校を休んでばっかりいて、中学の時はあらゆるクラブに入って…最初陸上部に入って、それから水泳部に入ったのかな、野球も入ったし…なにしろ行くとこ行くとこね、何が嫌でやめたかというと、ウサギ飛びなの!ウサギ飛びが嫌で転々としてたね。で、最後の最後に3年生になってサッカー部に入ったんですね。だけどサッカー部に入ったら、何試合かやったらもう3年生は終わりっていうね(笑)。

広報スタッフ:あ、引退…(笑)。

横山:そう(笑)。高校に行った時もね、サッカーやるかやらないかで迷ってて、その頃は野球が花形だったんで野球をやろうかなと思ったんですけど、中学から高校に行くと硬式野球になって、それはやったことがなかったので…。小さい頃は野球が上手だったんですよ。サッカーも上手かったですけどね、小さい時はですよ(笑)。で、高校になって始めたんですけど、結局指導者がいないからサッカーっていうものがわからないわけですよ。高校3年生の時に岡野さんのところへ行って初めて、1958年のワールドカップのフィルムを見せていただいた。そこに、有名なペレという選手がいて、ブラジルの初優勝した時の全試合が入ってるわけです。それが僕のサッカーの歴史の中で、一番衝撃的なことだったですね。

広報スタッフ:これがサッカーか…という感じでしたか?

横山:うん、「これがサッカーか」って。もう全然、我々のやってるのはサッカーじゃないって(笑)。その時に、サッカーっていうのはこうだとかああだとか、戦術を岡野さんから教わって、そのすぐあとにデッドマール・クラマーというドイツのプロコーチが来て。ですから、日本のチームはその時にものすごくサッカーの情報、指導についてやいろんな知識や考え方を、砂漠に水を撒いているのと同じで、ものすごい吸収できた時期だったですね。それは僕個人としてもそうだし、日本サッカー界としてもそうだったと思うんですね。だから当時、今の日本サッカー協会会長の川淵三郎さんも一緒にドイツへ行って、「芝生がこんなに何面もあるのか」っていう思いがあの人の中に強くあってね、今のJリーグっていうのはそういうことが根本にある。あの1960年代の初めに、日本のサッカー関係者にそういうものが植え付けられたということですよね。それまでは何もわかんなかったですもんね。川淵さんは今いろんなことご苦労されてるわけですけども、本当に一生懸命やってくれていて、僕らは本当に応援団としてね、本当にわかり合えるチームメイトなので、応援しないといけないなと思ってますよ。

広報スタッフ:その時期、ヨーロッパで受けた衝撃を知ってらっしゃる仲間ということですよね。

横山:そうですね。だから、1998年のフランス大会で初めてワールドカップに日本のチームが出場したというのは、我々にとってはまた違う意味でものすごい大きな衝撃ですよね。ここ3回にわたってワールドカップに出場するということは、いい意味で、我々にとってはものすごく、もう、言葉にならないくらいの嬉しさですよね。

広報スタッフ:その基礎というか、スタートの時期がみなさんの頃ですね。やはり感慨深いものがありますか?

横山:そういう時からずっとサッカーの中にいるんでね、この3回っていうのは非常に大きい…また新しい財産っていうものができたような気がしますね。それと、単にワールドカップに出たということだけじゃなく、14~5年前からJリーグができたお陰で、グラウンドの問題もそうですし、当時から日本サッカー協会が一生懸命やってくださった選手の育成や指導者の養成とか、施設の問題もソフトの問題も今は非常にうまく展開されていて、指導者養成なんかは、僕が見てる感じではヨーロッパと匹敵するくらいいいものを持ってると思うんですよね。これも、単にワールドカップに出たというだけでなく、そういう積み上げの中で成功していった形なんですね。ですから、例えば韓国や中国と比較しても、すべての面で成長してきてワールドカップに行ったというのは日本だけだと思うんです。それだけの底辺というか土台がね、出来上がって結果が出てきたという面では、非常に日本のサッカーというのはこの10年くらいで、ものすごい勢いで進行してくれたなと思いますね。

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